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大飢饉からの復興~渡瀬村救荒修祭記碑(鮫川村)

福島県県南地域にある鮫川村は、1889年(明治22年)に西山村・石井草村・赤坂東野村・赤坂中野村・赤坂西野村・富田村・渡瀬村が合併して今の姿になりました。
今回ご紹介するのは、合併する前の渡瀬村で起きたお話です。

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(※以下、福島県のホームページより抜粋させていただきました。)

天明3年(1783年・江戸時代)高冷地である渡瀬村では、江戸四大飢饉に数えられる「天明の大飢饉」により、多数の餓死者が出ました。村外に出て行く人も多く、150余りあった戸数も30戸にまで減少してしまい、田畑は荒れ果ててしまいました。しかし大きな被害を受けながらも、残った村民は団結し荒廃した農地を復興させ、その結果、寛政元年(1789年)は大豊作となりました。

寛政3年(1791年)に改めて餓死者を供養し、飢饉で起きた惨事が今後の戒めとなるようにと、代々の渡瀬村名主・赤坂氏によって石碑が建てられました。石碑には、当時水戸藩彰考館総裁だった立原翠軒による「天災は予期しないときに来るため、人々は平常時からこれに備えなければならない」といった意味の文が刻まれています。昭和11年(1936年)、赤坂家屋敷内にあったこの石碑は、赤坂家21代当主・赤坂儀作氏によって渡瀬区に寄贈されました。

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この時に建てられた「渡瀬村救荒修祭記碑(わたらせむらきゅうこうしゅうさいきひ)」がこちらです。結構な量の雪が積もっていたためあまり近づくことが出来ませんでしたが、
どうやら鉄柵には鍵がかかっているようです。

Img_7195_2

石碑を見てみると、「天明」の文字が刻まれているのが分かります。

Img_7193

江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した「天明の大飢饉」は、日本の近世では最大の飢饉だったとされています。その原因は、異常気象でした。悪天候や冷害により農作物の収穫が激減、そこに立て続けに岩木山、浅間山の噴火が起こり、各地に火山灰を降らせました。これによって日射量の低下が起こり、農作物に壊滅的な被害が生じたといわれています。

異常気象を引き起こした原因は諸説あり、完全に解明されてはいないのですが、大型のエルニーニョが発生して世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたという説もあるそうです。エルニーニョと聞くと、急に身近な話に思えるから不思議ですね。



記碑の隣には、建立にいたるまでの経緯が書かれた看板があります。「天明の大飢饉」という大災害を団結の力で乗り越え、自分たちが住む土地を見事に復興させた渡瀬村の人達は、どんな思いでこの石碑を建てたのでしょうか。

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あの東日本大震災から、もうすぐ4年が経とうとしています。渡瀬村救荒修祭記碑は、時を越えて、私達に大切なことを語りかけてきます。

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  <渡瀬村救荒修祭記碑>
    福島県東白川郡鮫川村渡瀬地内



文責:ま (ラクラスしらかわ http://rakuras.com/

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