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塙の救世主・名代官の息子が作った『誕育塚』(塙町)

塙町の第23代陸奥国塙代官を務め、荒廃した農村・民衆を救済したと言われている
寺西重次郎封元(てらにしじゅうじろうたかもと)。
寛政4年(1792年)より22年間、塙代官所に在任した名代官であります。

ラクラスしらかわでも、過去に何度か
寺西重次郎封元や彼の功績について取り上げております。

<関連記事>
稀代の名代官・寺西重次郎封元 ~ 塙代官所跡/向ヶ岡公園(塙町)
200年前の救民の思いを、今知る ~ 向ヶ岡公園(塙町)
あの名代官が建てたお堂です ~ 切石観世音(鮫川村)

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今回も、寺西重次郎封元が窮民救済の土木事業として
造成したと言われている「向ヶ岡公園」を訪れてみました。

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撮影した時はまだまだ冬の時期。(撮影:2014年2月)
この場所は、春には桜、秋には紅葉が見れる観光スポットになっています。

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桜の木を見ていますと、春の景色が待ち遠しくなりますね。

そんな季節折々が楽しめる「向ヶ岡公園」ですが、
実は、寺西重次郎封元が家族にも尊敬の眼差しを受けていたことを
伺わせる石碑があるのをご存じでしょうか?

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それがこの、「誕育塚(たんいくつか)」です。

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この「誕育塚(たんいくつか)」は、寺西重次郎封元(以下、封元)の息子・寺西蔵太が、
父である寺西重次郎封元に対し、塙代官として施した子育手法を顕彰して建てたものであります。

父・封元が桑折代官所へ移転することによって、寺西蔵太は文化11年(1814年)、
塙代官所において塙と小名浜の幕府轄領9万石の支配を預かりました。
封元の死後、遺志を引き継いで桑折代官に就任し、半田銀山の開発や民生の安定に尽力し、
その後、塙町・桑折町で勤めた陸奥代官としての業績がかわれ、西国郡代となりました。

父である封元は、荒廃した農村・民衆を救済するための
「寺西八ヵ条」や「子孫繁昌手引草(子供の間引きを諌めた絵図)」
の配布などを行ない塙町の礎を築いてきました。

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一説によりますと、封元は出産手当の支給や、妊産婦や乳幼児の保護・検診などを行っており、
この時代に一足早く、子供手当などの政策をしていたことが伺えますね。

その父・封元の背中を見て、封元の功績を受け継いできた蔵太だからこそ、
「誕育塚」を、「向ヶ岡公園」にて顕彰したのかもしれませんね。

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向ヶ岡公園
〒963-5405 福島県東白川郡塙町大字塙地区

文責:す (ラクラスしらかわ http://rakuras.com/

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