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全国屈指の御猟場跡 ~ 矢吹が原(矢吹町)

以前、矢吹が原の開拓でも書きましたが、矢吹地区は昭和31(1956)年に羽鳥ダムが完成して、土壌が豊かになりました。

今日の話題はそれより昔のお話。
矢吹地区が「矢吹が原」でなく、荒涼な原野「行方野(ゆきかたの)」と呼ばれていた頃のお話です。

明治18(1885)年、ときの宮内省は御料局を設置し、行方野の大部分は御料地として認められました。
御料地とは、大日本帝国憲法下における皇室財産を意味しています。

その後、御猟場が開設されたのは明治24(1891)年。
一説には、矢吹の三城目地区に雉子が3,000羽近く生息していることから、御料地内に「岩瀬御猟場」として開設されたといわれています。
御猟場としては、東京(鴨猟場)、日光(鹿猟場)に次いで3番目の設定でした。

当時、御猟場での狩猟が認められていたのは、ごく限られた人のみでした。
特命(天皇が許可した人物)、または特許(皇族・親任官以上で出願して認められた人物)の高位高官だけが許されていました。

前後しますが、明治20(1887)年に東北本線が郡山駅まで開通したときに、矢吹駅が開業します。

線路の東側一帯は御猟場で、駅を降りたらすぐ猟場という好立地もあって、東郷平八郎、乃木希典、島村速雄などの名士が数多く訪れたといわれています。
矢吹町の発展は御猟場によるものが大きかったといえます。

この頃から、「行方野」は「矢吹が原」と呼ばれるようになっていきました。

Img_7792
<現在の行方野(矢吹町大池地区)>

しかし、大正末期には特権的狩猟場のありかたに疑問を持たれるようになってきました。
大正デモクラシーの影響もあって、大正14(1925)年、宮内省は御猟場を廃止します。
その後、農林省は「矢吹国営猟区」として大正15(1926)年に開設します。

Photo

上図は大まかな範囲で書いてありますが、西に東北本線、東に阿武隈川を望むこの範囲が矢吹国営猟区だったようです。
入猟者は1日12人、承知料(入猟料)は15円で一般に公開されたといいます。

当時と今の金銭価値を単純に比較することはできませんが、参考までに企業物価指数で当時と比べると、

 大正15年の企業物価指数  1.157
 平成20年の企業物価指数 736.8

大正15年と比べて636.8倍ですから、現在の9,552円相当になるのかもしれませんね。<参考:日本銀行

しかし昭和16(1941)年、国営猟場の存続期間が切れ、猟場は廃止されてしまいます。
周辺には町村営の猟区も設置されていましたが、太平洋戦争激化によりいずれも廃止されていきました。

それから現在、大池公園の入り口には「雉子塚」と書かれた石碑が建てられています。
雉子供養のために、昭和9(1934)年に建てられたものです。

Img_7795

当時の猟場はすっかり田園地帯へと変わり、そこが猟場だったことは感じさせません。
しかし、こうした史跡がきちんと歴史を物語っていることを考えると、あらためて感慨深いものを感じますね。

Img_7793

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岩瀬御猟場
 参考:矢吹が原の軌跡(矢吹町サイト)
 http://www.town.yabuki.fukushima.jp/arekore/youran100/01.html

文責:よ (ラクラスしらかわ http://rakuras.com/

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