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古来からの歌枕「白河の関」

初夏の白河関跡を訪れました。
古来からの歌枕になっている「白河の関」。
「白河の関」を題材にした句は、平安から江戸後期まででも150首を越えるそうです。

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関跡にある「白河神社」には「白河の関」を詠んだ3人の句碑が建っています。

平安時代以降、「白河の関」を一躍有名にしたのは僧で歌人でもある、能因法師でした。

「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」

この歌を詠んだとき、能因法師はまだ白河を訪れておらず、想像をめぐらせて詠んだようです。
京の都から白河までは半年の時間の距離、とされおり、
都のひとびとも、最果ての地、白河に思いを馳せたのでしょう。
この歌により、芭蕉もまだ見ぬ白河の土地に憧れを抱いたといわれています。

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能因法師よりも前に、平兼盛が白河越えの折、

「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと」

と詠み、
源頼朝が奥州鎮圧の際に関を越え、家臣の梶原景季が

「秋風に草木の露を払はせて 君が越ゆれば関守もなし」

と詠みました。
「君」とは頼朝のこと。頼朝を讃えた歌です。

そして「白河の関」といえば「奥の細道」の芭蕉と曽良。

☆関の森公園の像

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白河の地を越えたくて気もそぞろになる、と序文にあったほどですが、
実際に芭蕉がここで歌を詠むことはありませんでした。
白河を詠んだ歌としては、須賀川に着いてからの

「風流の初やおくの田植うた」

という歌が残されています。

「西か東か先早苗にも風の音」

とも書簡にて詠んでいて、
これは関の程近くに句碑となり、残っています。

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白河の地にて歌を読まなかった理由としては、長旅の疲れ、とされてるようですが、
芭蕉が白河に着いたときにはまだ白河の関の場所がはっきりとしていなかったから、
とも言われているようです。
芭蕉が白河に来たのは1689年、定信公が関の跡地と定めたのは1800年のことでした。

芭蕉の代わりに曽良が

「卯の花をかざしに関の晴着かな」

と詠みました。

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今年も関跡には卯の花が咲いています。

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白河関跡
 白河市旗宿

文責:な (ラクラスしらかわ http://rakuras.com/

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